さて、リヤカーの旅は続きます。Kさんの記録には『あがたの小学校までは北野に人家があるのみで、一面の水田である。小学校の南の道に入った。この道は人家に沿うて建ち並び狭い通りであった』とあります。現在のあがた小学校は、敷地も広く鉄筋建ての立派な校舎ですが、昭和9年当時は、木造で運動場も狭かったと書かれていました。
人家の並ぶ狭い道を進み、松林を通って送電線の下をくぐります。『少し行くと頭上を高圧電線が北から南へ横切り 道の南の松林の中であがたの変電所から出た送電線がその下を潜り抜けていた。』Kさんは、揺れるリヤカーの中から頭上の風景を楽しんでいます。こうして左手に天理教を通過します、この時Kさんは、教会の庭がきれいに手入れがしてあったことを述べています。
『走っていくと、左に“パラダイス果樹園”という梨畑があり、少し人家があった。また少し行くと 坂なり途中北側に“足洗池”という小公園があり、坂部の小坂と教えてもらった。』
足洗池 日本武尊の伝承にまつわる史跡は、北勢地方に多く点在するが、ここ「足洗池」もその伝承地の一つである。地元の言い伝えでは『日本武尊は東征の帰路、大和を目指したが、途中弟 五十功彦命(いごとひこのみこと)の江田神社の祭り神のもとを訪ねようと、当地に至った。伊吹山の神の祟りにより重病にかかっていた尊は、この地の清水で足を洗い小康(しょうこう)を得た。』と伝えられている。
わが国最古の歴史書『古事記』に「わが足三重のごとく曲がりてはなはだ疲れり」といわれる「三重」の地は他所とする説もある。しかし、地元の国学者舘通因(たちつういん)翁は、この足洗池の伝承などから、当地区こそ その三重の地であり、三重郡の中心であるとして、明治22年市町村制施行の折、この地区を三重村と名付けた。