四日市宿は、1724年から1801年の大和郡山藩時代を除き天領(幕府領)でした。今の中部西小学校の処に陣屋(代官所)がありました。
陣屋を北側の橋から眺めた図
竪町側(南)から黒門をくぐります。突き出た土手を回り込む様に進むと表門があり、中には大きな松の木がそびえています。「神祖御駒繋松」と呼ばれ徳川家康が本能寺の変の際に三河へ逃げる途中、此処に馬をつないだといわれています。左に建つ長屋風の建物には手代や下男が住んでいたところか?右の建物が政務を執るところだったと想像できます。
さて、前回も紹介の「東海道分間延絵図」を覗かせていただきます。
東海道を1里ごとに立つ“一里塚”は、盛り土の上に槇の木が植わっていると書きましたが、榎(えのき)の間違いです。(スミマセン)
この一里塚は、四日市には4か所ありました。
右に一里塚が立ちます
富田(現在の近鉄富田駅の北。三幸毛糸富田工場沿い・近鉄線の高架付近)です。
三ツ谷町(海蔵川の北側)。現在、塚の標識は海蔵川の堤防付近に寄って立てられています。
日永(西唱寺の南・ここの一里塚は江戸から100里目にあたるというスゴイことです)。図の左に西唱寺と一里塚が・・・。
采女(急な杖衝坂を上って少し進んだところ)の4か所でした。右に進むと杖衝坂に至ります。
これは追分の図です。ここにあった道標は、日永神社に移されて現在に至っていますが、東海道現存最古の道標というコレモスゴイことだそうです。一度自転車ででも出かけてみたいものです。