昭和39年、東京オリンピックへリレーされる聖火ランナーを見る人で1号線蔵は黒山の人だかりとなった。(樹林舎刊 “四日市市の今昔”より)
その見物人を背にして“すわとん”と左に“ダイヤパン”が並ぶ。“すわとん食堂”は真ん中に通路があり、右側の店頭で大将が大なべに油をはじかせカツを揚げていた。その奥が客席だ。カツを揚げながら通る人に大きな声であいさつをする。評判だった。串カツが10円、トンカツ30円(昭和30年代当時週刊新潮が30円だったから、そんなものと想像する)。品揃えはそれだけ。母親は店が忙しいので夜は店屋物(てんやもん)で済ませる日が多かった。5人兄弟の大家族。「今日は串カツ!」と決まると“すわとん”へ大金をつかんで走る。きざんだキャベツに串カツが各3本盛られる。厚いコロモにかぶりついて玉ねぎだと残念、肉だと嬉しかった。
店内で食べた記憶はほとんどない。昭和43年頃、組合の宴会で2階に集まった。キャベツが盛り付けられたトンカツで一杯やる。宴たけなわになった頃、おやじさんが8ミリ映写機を持ち出した。「顔は悪いが、表情が何とも言えんです」そのヒトコトが記憶に残る。
そう、思い出した。“すわとん”前に観光バスが止っていたことがある。四日市名物だった。当時は親父さんの他に数名の若い衆が忙しく立ち働いていた。前を通ると親父さんの大きな声が飛んでくる。1号線寄りに駆け抜けた。