昭和32年頃の街
“嶋口屋”の店屋物が多かったから、たまに違った麺類が食べたくなる。ちょうど嶋口屋の裏手、1号線沿いに小さな食堂“ママ家”があった。
今でも看板が残っていて建物もそのままだ。大衆食堂とあるから入口右側のウィンドウにはいろんな見本が並んでいたことだろう。ラーメン、炒飯、やきそば、おでん、かき氷 あたりか?我が家はラーメン専門だった。
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「今日はママ家のラーメン!」と号令がかかると一家は店番を交代で出かける。机が2~3台、十人も入れば満席だった。縄のれんの下に打ち水がしてあり、外の道路が日差しに反射していた。信号機もなく、1号線を走る車は少なかった。出された平たいどんぶりは、うどんの容器に慣れた自分には“これがラーメン!”と主張しているように感じた。今、思うと至ってシンプル。焼き豚、しなちく、なるとが乗っていて、焼きのりが最後に添えられる。これを初めに食べるのか?お汁に溶かして食べるのか?迷った。
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ママ家と路地を挟んで北角に“コトブキヤ”と云う菓子屋があった。店内はズラッと箱が並びガラスの蓋がしてある。奴あられ、金平糖、かわり玉、かりんとう、飴玉、せんべい、ビーンズ等が並ぶ。ガラスには“100グラムいくら”の札が貼ってあり、その横に“10円でいくら”と書いてある、それをステンのスコップですくい、秤にかけて売ってくれた。秤の針からは目が離せない。いつも多めに入れてくれた。おやつの時間になると、兄弟でじゃんけんをし、負けたものがコトブキヤへ走る。家では、頭数だけ敷いた包装紙の前で帰りを待つ。固唾を飲んで見守る中、お菓子は均等に分けられた。
北向きに撮られた1号線商店街。丸茂の先にママ家の“めし”の看板が見える(昭和40年頃)提供 辻俊文氏